最近、「仕事」とは何だろう? と考えています。
次の 2つを考えた場合
(1) (報酬の出元である) 所属組織に対する価値の提供
(2) 人類社会に対する貢献
ここで、次の 2命題のどちらも真であれば、話は簡単。
(図「資本主義の超単純化モデル」の状態)
(命題 a) ある個人について、ある活動が (2) ならばそれは (1) である。
(e.g. 社会的な活動は会社でしかしていない。)
(命題 b) (1) は (2) の部分集合である。
(ie. その会社の活動はすべからく人類社会に貢献する。)
いや、ただ、休日とか夜中に (人類の知識を増やす類の) 研究をしていて、
そういう自分を人に対して説明する際、
「仕事をしている」と表現することが適当なのか否か?
と考え始めてしまったというわけです。
というか、「仕事忙しい?」と問われて、「うーん、仕事っていうか何ていうか...」と
考えてしまったというわけです。
つまり、(1) ではないけど (2) である (と信じる) 活動は「仕事」なのか否か。
例えば、OSS 開発は「仕事」なのか? と。
言葉遊びかもしれません。
今日の社会システムでは、(1) は specific (直接的, 限定的) であって、
(2) ではあるが (1) に収まりにくい種類の活動では、
なかなか報酬を得られない → 食べられない。
つまり、人類社会に確実に貢献しているはずでも、
経済システムに乗っからない活動では食べられない。
(じゃ、社会主義がいいの?)
こう考えると、
現行とは別の、または、新しい貨幣システムの提案 (e.g. 鈴木健さんの PICSY)
というのは、資本主義を基本としつつも、
資本の運動パターンをより良い (と信じる) 形にしよう、という活動だと
とらえることができる?
昨日、Real UNIX MAGAZINE Day にて、SRA 岸田さんが、
ソフトウェア開発とかファッション業界とか、
形のないモノを作り出す類の労働を Immaterial Labor と呼んだことを思い出す。
そこにおけるプロセスでは、
使う側もプロセスの一部 (e.g. Web 2.0 的な user-generated content) であり、
生活のあらゆる場が生産の場であり、余暇と労働の区別はない、とおっしゃった。
ごくシンプルな、個人は労働をもって企業に貢献し、企業が社会に貢献するという
従来的、古典的な資本主義の (一面的な) 形とはズレてくる。
人類社会への貢献は、企業内での労働におけるそれに限らないものとなる。
稚内北星学園大学 丸山先生は、よく「多重帰属」とおっしゃっている。
これは、(食いぶちの出元である) 所属組織での労働、
それのみを通して人類社会に貢献するという古典モデルではなく、
複数の組織、コミュニティを通して様々な形で人類社会に貢献していく、
という今後の社会像を表しているととらえることができる?
Google / グーグルに人を「とられた」「吸い込まれた」という表現が使われる (?) のは、
一度入った人の活動が外にはなかなか見えないから。
それはつまり、個人と社会の関わりを、企業を通したもののみに厳しめに限定しているからではないか。
ネット時代の寵児、っていう見られ方をする Google / グーグルは、
この点においては、社会の一員としての振る舞いがとても古典的なのかもしれない。