起業をめぐるバイアス

首藤 一幸

Last-updated: May 12, 2012

首藤一幸:
"5. 起業をめぐるバイアスと価値提供のあり方",
くらしと経済の基盤としてのITを考える研究会報告書, (独)情報処理推進機構,
2012年 3月 30日 (IPAの発表)

 いまどき、起業についての言説はネットでいくらでも見つけられる。しかしその多くは、起業を勧めたいという方向のバイアスを帯びた立場での言説である。起業に関係する人、特に事業を興す人は、バイアスの存在と、どういったバイアスが存在するのかを知った方がいい。以下、そのために、まだあまり世で述べられていない事柄を述べたい。

もくじ

注: この文章のうち、少なくとも次の内容は、友人・知人が私に教えてくれたことです。 教えて下さる方々に感謝します。

起業を勧めるバイアスを帯びた人々

 人に起業を勧める動機を持った人がいる。

  1. 投資家
    お金を投じてリターンを得ることが事業の目的であるため、有望な相手には投資をしたいし、起業家の裾野が広がらないと有望な投資先も現れてこないので、起業家を増やしたいという動機を持つ。
  2. 経産省や総務省といった行政(や一般市民)
    経済・産業振興が目的であったり、そうでなくとも自身の担当領域への投資を活性化させたいという目的があるため、起業家を増やしたいという動機を持つ。経済振興、雇用増大はありがたいことなので、一般市民も同様の動機を持つ。
  3. 大学・国の研究所(AIST, NICT, …)
    例えば「大学発ベンチャー1000社計画」(経産省, 2001年)といった施策があり、経産省や文科省が大学ごとに法人設立の数を数えて発表してきた。その種の施策に動機付けられ、職員や学生に企業を設立させたいという動機を持つ。
  4. 先輩起業家
    自身が、多くの社会人とは異なる、よりリスクの大きい道を選択しているため、そのことを尊いこと、すごいことだと考えたいというバイアスを帯びる。人に勧めまでするかはともかく、それによって承認欲求が満たされるので、起業は尊いことであると主張する動機を持つ。筆者も例外ではなかった。
  5. 会計士、税理士、弁理士、弁護士、社会保険労務士、…
    士業にとって、起業家は直接の顧客、もしくは雇い主、または将来の顧客候補であるため、付き合う動機を持つ。増やしたいという動機もある程度持つ。また、事業を手伝うことで創業期の興奮を一緒に体験する、といううまみもあるのではないかと踏んでいる。米西海岸のネットワーキングパーティには、こうした士業の方も多く参加していた。

 こうしたバイアスがなかったとしても、起業家が増えることはよりよい社会につながる、もしくは、よりよい社会に向かっていることを示している、という論は立つし、筆者もそう考えている。しかし、そうは言っても自分の人生である。人は立場によって上記のようなバイアスを帯びるので、そのことは踏まえて話を聞いた方がいい。

 特許について類似した話がある。職員や学生に対して特許出願を勧める大学やTLOも、自身に動機があって勧めているのであって、決して、相手のためが第一ではない。職員が行った発明はたいてい、職務発明規定によって、特許を受ける権利が大学に帰属する。これはともかく、学生が行った発明の場合、大学との契約がない限りは、譲渡するかしないかは発明者である学生の自由である。大学や特にTLOは譲渡を勧めるに違いない。費用や手続きの面で出願をサポートしてくれ、大いに褒めてくれるだろう。その代わり、特許を受けるのは大学となり、その特許をどういう条件でいくらでライセンスするか、またはしないかを決められるのはTLOとなる。TLOの、おそらく経験豊富なスタッフが交渉してくれる、という前向きな見方はあるが、いずれにせよ、将来何が起こるかは考えておきたい。増資の際の投資家からの見え方、売却やその意思決定などに何かしらの影響はあるだろう。わからなければ、万全を期して自身で出願するという選択肢もある。その代わり、出願書類は自身で作成するか、何十万円かを支払って弁理士に作成してもらうかということになり、国外での出願をどう考えるか等、すべてを自分自身の労力かお金で解決することになる。

受託開発という罠

 ソフトウェア開発ができる技術者にとって、受託ソフトウェア開発は有望な食い扶持である。開発案件の受注さえできれば、その時点で、報酬を得られることがかなり確実になる。起業家のほとんどは、まず、食べていけるだけの稼ぎが欲しい。同時に、起業家の一部は、顧客由来の何かに取り組むのではなく、自らの発想や動機に基づく事業をしたい。前者のためには受託開発が圧倒的に有利だが、しかしそれは自らの発想に基づいた活動ではない。そこで、まずは受託開発をこなして日銭を確保しつつ、並行して、自らの発想に基づく事業を進めようとする。そして何年か経つと、自分のやりたかったことの方がほとんど進んでいないことに気がつく。必ずというわけではないが、そうなりがちなものらしい。

 筆者もそういう例を複数目にしている。単純に、受託開発に取り組むと他に回すリソースが残らないという理由もあろう。報酬という蜜に誘われて受託開発に専心するという場合もあるだろう。そうでなくても、同一のリソース(例:開発者)を、顧客側での価値が約束されている受託開発ではなくて価値を認められるかどうかわからない開発に回すというのは、合理的に考えれば考えるほど、なかなかできない。だから、市場でまだ価値が認められていない事業(例:破壊的イノベーション候補, 研究の多く)は、すでに市場で価値が確立している事業とは、オフィスの場所、人事制度、報酬体系等を別のものとして引きずられないようにするのである。受託開発の納期に追われて作業する社員と、お金になるかわからない、よく言えば将来を見据えた、悪く言えば浮ついた作業に取り組む社員、両者が隣り合わせで仲良く作業することは難しい。後者は前者を手伝いたくなることが普通であるし、しかしそれでは分業が台無しである。

貢献と報酬

 市場での価値がまだ認められていない事業に専念するためには、大なり小なり資金が要る。銀行からの融資はそうしたリスクの大きい取り組みには向かない。そもそも、海のものとも山のものとも付かない事業に銀行は貸せないし、借りられるくらい信用ができればたいしたものではあるが、それでも、社長の個人保証などで、どこまでも返済の義務が付いてまわる。そこで、もしそれなりの資金が要るなら、株式を通じた資金調達、具体的には増資を考えることとなる。これは大雑把に言うと、新たに発行する株式を買ってもらい、つまり会社の一部を所有してもらい、代わりに現金等のリソースを受け取ることである。その時点の企業価値を算出して、それに基づいて出資者の持株比率が決まる。例えば、企業価値が9億円であると合意するなら、1億円の出資で持株比率10%となる。この会社の価値が将来1000億円になったとしたら10%の株式は100億円に化ける、という計算である。また、投資を受け入れることには資金調達の他にも意味や意義がある。例えば、株の保持によって事業成功の動機を共有してもらえるといった効果・影響がある。事業への協力も狙って、投資業ではなく事業会社から増資してもらう、といった具合いである。

 事業への貢献に対するリターンを得ようという段になって、そのとき、10%の株式、つまり企業価値の10%を保有しているということは、愚直に考えると、事業の成功に対して10%分貢献したことを意味しているはずである。しかし一方で、持株比率は出資した金額に応じて決まっていく。つまり、これでは、創業メンバを除いては、お金による貢献しかカウントされないことになる。しかし、重工業や家電はともかく、いまどき、お金やそれで調達できるリソースが成功のキーファクタ(鍵となる要因)であるような新規事業がどれくらいあるだろうか。また、サブプライムローン問題でも露呈したように、金融経済においてはお金の方が行き先を求めて走りまわっているのが現代である。お金が成功のキーファクタでないのに、出したお金によってリターンが決まるというのはおかしな話である。リソース提供者だけでなく、事業のコンセプト、経営、技術、マーケットコミュニケーション等のそれぞれが、成功に貢献した割合に応じたリターンを得ることが自然だろう。このためには、ストックオプション等を注意深く活用しての近似が可能ではある。一方で、投資家の立場は上記の理想論とは往々にして相反する。投資家が投じるのは主にお金であり、それに対するリターンを最大化することが目的だからである。とはいえ、起業家にはお金がないことが普通なので、背に腹は代えられない中で出資の条件を交渉することとなる。また、投資家も、お金の代わりに、もしくは、お金に加えて別種の価値も投じようと常に試みている。ハンズオン、アドバイス、紹介等を通じたendorse等である。

 今日、他にも、価値提供・貢献とそれに対する経済的対価がかみ合わないケースが顕在化してきている。例えばオープンソースソフトウェア(OSS)。電子メールの配送ソフト、ウェブサーバ、データベース管理ソフト等、OSSが高いシェアを占めて世界を支えている例は多い。しかしOSS開発者の多くは、開発に対して経済的な対価は受け取っていない。reputation(評判)や貢献の喜び等、貨幣ではない対価を受け取っているというとらえ方はあるが、いずれにせよ、そこにおける価値提供・貢献は、今日の経済システムに載りきっていない。経済システムに載りにくい貢献は、伝統的には、パトロンに支えられる研究者や芸術家、税金で行われる公共事業などがあった。今日では、インターネットの普及に伴うOSSの影響力増大や、NPOへの注目の高まりなど、よりはっきりと姿を現してきている。

 貨幣はそもそも物々交換の非効率さをなんとかするために現れた。つまり、お金は元来、価値交換をスムースに行うための手段である。強く顕在化してきたお金の動きと合致しない価値提供・貢献をどう認識してどう取り扱っていくかは、今後の社会、そこで生きる個人に大きな影響を与えるだろう。知識資本主義、reputation economy、代替通貨等は、この課題への回答の試みととらえることができる。

個人がempowerされている時代

 知識産業においてリソースが成功のキーファクタではなくなったことや、経済システムに載らない価値提供が顕在化してきたことの原因は、1つは、個人がempower(力の付与)されてきたことであろう。それこそ、PCを1万円から数万円で買うことができ、1ヶ月数千円のインターネット接続料でネットにあふれる情報にアクセスでき、世界中の人と接触できる時代である。また、クラウドも個人を非常に強化した。それまで、世界中に向けてネットサービスを提供するには、データセンタにラックやサーバを借りるかまたは自身で設置し、それなりに太いネットワークを引き、サーバをメンテナンスするかその要員を雇うかする必要があった。金額にして、1ヶ月の最低必要額は数十万円である。それに対して、クラウドの一形態、Amazon EC2に代表される仮想マシン貸しサービスでは、1時間あたり数円からサーバを借りることができ、ネットサービスが流行るにしたがって、随時、サーバを増やして、または逆に減らしていくことができる。最低必要額は1ヶ月あたりせいぜい数千円である。初期投資がほとんど要らないことと従量課金であること、この2点が、個人にできることを大きく拡大した。同様に、個人の能力を大きく拡張する様々なネットサービス、具体的には、グループウェア、オフィススイート、SNS等々を無料かごく安価で利用できる時代である。

 個人がempowerされるに従って、大企業こそ悩み始めている。知識産業等、すでにリソースが成功のキーファクタではなくなった事業領域では、巨大なリソースプールであるところの大企業は、直接的にはその意義を失いかねない。では、その中で今後はどういう価値を提供し得るのか?真剣に考え始めている。例えばIBM社は、レポートGlobal Innovation Outlook (GIO) 2.0の中でこう述べている:『プロジェクトからプロジェクトへ自由に飛び回る「一人会社」が何十億も出現するのではないかという見方すら出ています。…従来の企業が担っていた役割は、個人や個人グループ間の挑戦を調整してその円滑な実行を支援するという方向に変わっていくのかもしれません。』

 これからの十年、二十年は、empowerされていく個人に対して、大企業が自身の存在意義や提供価値に悩み、模索する時代となる。個人や小さな組織にとっては好機であると同時に、一方で、大きくなることの意義や成長とは何かを問い直すことになるのだろう。

起業 ≠ 法人設立

 起業というと、法人を設立して社長になること、というイメージがあるかもしれない。しかしよくよく「起業」という語を眺めると、そこに法人を意味する文字は入っていない。業(なりわい?)を起こす、とあるだけである。「業」の解釈はいろいろあろうが、個人の視点では、仕事をして生計を立てること、社会の中での意味は、社会に対して価値提供して対価を受け取ること、であろう。つまり、事業である。以上はただの言葉遊びに聞こえるかもしれないが、いずれにせよ、本来、法人は事業のための手段であり、あった方がよければ設立すればよいし、ない方がよければ設立しなければよいものに過ぎない。その事業による所得が小さければ、個人として確定申告していればよいし、一定額を超えて節税したければ個人事業主として届けて青色申告すればよい。物品や資金、従業員といったリソースのプールとして欲しいのなら法人を設立すればよい、というだけの話である。他には、投資を受けるためには株式を買ってもらうために株式会社とする、といった必要性もある。逆に、弁護士が1人で仕事をしていく場合にはわざわざ法人設立はしないことが多いと聞く。

 元来は手段であるところの会社設立を指して起業と呼ぶことは、実は本末転倒ではないだろうか。行政等が設立件数を見ることには、他に測る手段や指標がないため、仕方なさを感じる。しかしそれに煽られる大学等はどうしても事業それ自体はさておき件数に目が行きがちである。手段としての法人設立がエラいのではなくて、事業による価値提供に意義がある。

 もっとも、法人設立を指して起業と呼ぶ理由もわからなくもない。投資家、行政、周辺の士業等、起業を勧める側の興味の対象は、提供価値をどんどん大きくして、経済的に大きくなっていこうとする事業体である。大きくなる気がないということは、投資に対するリターンが得られないということであり、雇用を生まないということである。起業を勧める側としては、当然、法人を要するような事業にしか興味がない。よって、そこで言われる「起業」とは、当然、法人設立を伴うようなものを指すことになる。また、法人設立は象徴的な手段なので、傍目からわかりやすい区切りではある。

ベンチャーの定義:スタートアップとスモールビジネス

 ベンチャー企業・ビジネスの定義はいくつもあるだろう。新事業、小企業、革新などは、多くの定義に共通して現れる。一方、ある事業・企業がベンチャーであるか否かは、どう区別できるだろうか。これが難しく、表層的な数字で区別するくらいしか方法がない。例えば政府機関は、設立から○年以下、資本金○円以下、従業員数○人以下といった基準を設定して、ベンチャー支援プログラムの対象か否か、企業を区別する。ここに例えば、世界に大きなインパクトをもたら…すかどうかは別として、企業価値数千億円になることやとても大勢の従業員を雇うことを将来狙う小企業と、自分だけの価値を提供し続け…るかどうかは別として、大きくなる見込みまたは意志のない小企業があったとする。設立からの年数や従業員数といった条件に照らせば、どちらもベンチャー企業である。ということは、どちらもその支援プログラムの対象たり得るということである。しかし、投資家や行政にとって、前者が本来の投資・支援対象であって、後者はそうではない。本来は前者だけがベンチャー企業だろう、という意見はあるが、後者が自身をベンチャー企業と呼んだとして、それを否定できる根拠もない。

 実際のところIT業界では、後者であっても設立間もなければ、自称、他称、ベンチャーと呼ばれているのが現状ではなかろうか。この混同は、いろいろな不幸や間違いを招いているように感じる。例えば、行政のベンチャー支援が後者に対して行われたり、起業家自身が両者の区別を認識しておらずに、前者のために起業したはずが後者に属する受託開発に没頭したり、である。両者の区別がもっと広く認識されるだけで、こういった不幸や間違いは減るのではないか。ベンチャーという言葉はこのように広い意味を帯びてしまったので、筆者はあえて、前者を指して「スタートアップ」、後者を指して「スモールビジネス」「ライフスタイルカンパニー」と呼び分けるようにしている。

事業の手段としての法人

 いったん法人が設立され、特に雇用を始めると、それは別の性格を帯びてくる。従業員も最初の数人から先は、事業の成功・推進よりも、自身の給与を主目的として一員となるものであるし、事業の都合だけで解雇・解散ということは難しくなる。そうして、事業ではなく法人という容れ物に入ったリソース側の都合に左右される場合が増えていく。高度成長期の日本企業が、社員の生活の場、コミュニティであったのだとしたら、それは、事業やそれに加えて社会からの要請上、リソース側の都合を汲んだ運営が合理的だったということであろう。今起きている非正規雇用等いくつかの社会問題は、そうした運営が経済・社会からの要請と整合しなくなってきた、と解釈できる。

 事業ありきであって、法人はそのための手段である、というそもそもの目的から離れるにしたがって、そもそもの目的を想定して設計された周辺システムとの齟齬が起きてくる。例えば、ある法人が複数の事業AとBとCと…を行なっていて、事業Aに投資を受けたいとする。投資をする側の食指が事業Aに動いたとして、投資に至るだろうか?投資側としては事業Aに投資したいのであって、事業BやCに出資したいわけではない。しかしその法人に投資するということは、全事業に投資するということになってしまう。具体的には例えば、受託開発事業で生計を立てつつ、その中で自分たち発の事業を立ち上げると、こういうことになる。(もっとも、この程度であればテクニカルな問題であって、子会社の設立その他、対策はある。)

マイナスの抑制は粛々と、むしろ、プラスの増強を

 目の前に現れてきた課題や機会を、重要性の高さ(I〜i)、緊急性の高さ(E〜e)、機会(+)なのかリスク(−)なのかで分類したとする。2×2×2=8つの象限のうち、どこに力を注ぐべきだろうか?立場や状況によって異なるだろう。では、企業経営者ならどうだろうか?おそらく、重要性が高く(I)緊急性の高い(E)リスク(−)、という回答が多いのではないだろうか。ところが、それとは異なる論がある。重要性が高いもの(I)に注力するという点は同様であるが、他は逆で、経営者は緊急性の低い(e)機会(+)に力を注ぐべき、という論がある。I E - ではなく I e + に注力すべきというわけである。この論の根拠はいくつか考えられる。そもそも、緊急性の高いリスクは明確な形をとっているのだから、方法論の蓄積があり、もしかしたら既に体系付けられており、ある程度の頭脳をもってすれば対応策を網羅、分析できる。一定の確率で降り掛かってくることがわかっているのであれば、対応すべきであることも明らかである。例えば、数ヶ月後に資金がショートする、といった緊急性の高いリスクへの対応策は限られるし、分析しやすい。問題が定まったらそれをうまく解いていける賢い人材はそれなりにいるし、もっと言えば、その種の人材やサービスは、買える。経営者は彼らに任せればいい。それに対して、機会(+)はというと、より不確実性が高く、それゆえ、どれを採るか、何をするかの選択は多分に恣意的なものとなる。経営者は、問題解決ではなくて、そういった、何をするか?という問題設定にこそ本分がある。我々人類はそもそも、大自然の中の様々なリスク、例えば餓死や捕食の危険に対処してうまく生き残ってきた祖先達の末裔である。脳が機会(+)よりリスク(−)の側に敏感にできているとしても不思議ではない。だからこそ、自然に注意が向くリスク(−)に心を占められることなく意識的に機会(+)に注意を向けていくことに価値がある。

 行政も同じである。問題の発生を抑えるために事業者や国民に制約を課す、つまり、マイナスの事柄を減らす取り組みは規制行政、その逆に、プラスを増やす取り組みは振興行政と呼ばれる。規制行政と振興行政という考え方は、例えば、消費者庁設立の際にも用いられた。つまり、振興と規制を同一の組織が行ってきたために、両者の間にある利益相反が原因で規制側の働きが弱く、充分な消費者保護が行われてこなかった、という論である。利益相反までは至らないとしても、政策立案やその前段階の議論をする際、それは規制なのか振興なのかを意識しておくことはほとんど必須だろうと考える。経済産業省の目標を筆者なりに表現すると、国民がうまい飯を食べられること、であり、一義的には経済・産業の振興がその使命である。昨今は金銭や物質に依らない豊かさや幸福感が注目されてきているとはいえ、まず、食べられてこその幸福であり、経済システムがその鍵であることは当分変わりそうにない。プラスあってこそのマイナス抑制である。そこまで言うと、いやある程度食べられるなら次はマイナスの抑制が重要だ、という異論もありそうだが、少なくとも、マイナスの抑制と同等かそれ以上にプラスが増えることが重要である。

 情報技術について言えば、例えば、現在の(略)の中心的な施策であり、常に(略)の焦点だったセキュリティ・プライバシー情報の扱いは、マイナス抑制の技術であり、施策である。ネットサービスが生む価値を損ねないようにセキュリティを向上させる、といった具合いである。関連するリスクが強く顕在化してきたこともあってもちろん重要な領域ではある。しかし、振興行政の立場としては、あくまでプラスあってのマイナス抑制であることは常に念頭に置いて、それだけに没頭することのないように、粛々と進めたい。

 実のところ、経営者、行政だけでなく、個人でも同じことである。緊急性の高いリスク(−)には粛々と対応するとして、そこに埋没することなく、緊急性の低い機会(+)をいかに見逃さないで、そこにエネルギーや時間を割いていくかが幸福につながる道であると信じている。